あいちトリエンナーレ19 少女像騒動にみる記号論:表現の不自由と感受的自由

   

少女像という記号

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 特定の思想をもつ人々の熱意により渦中の《少女像》は作られたが、その経緯、批判精神の強さに比べて、彼らの実戦部隊たる立体物(像)そのものが発するメッセージ性は驚くほど貧弱なものだ。

造形的な面で特別秀でている訳でもなければ、滾るメッセージを表現するためのアイディアに満ちている訳でもない。贔屓目に見たところで何の変哲も無い、チマチョゴリを着た純朴な少女の像そのものだからだ。

しかし、彼らはそれを《日本大使館前に設置する》=《像に別の要素を関連付けることで新しい意味を持たせる》というアイディアによって、何の変哲も無い少女像に別次元の力を与えることに成功した。

結果、公人私人に拘らず多くの人々はその衝撃によってうぶな思考回路を吹き飛ばされ、本来展開されるべき論理的思考の欠落に気づかぬまま、さも少女像そのものが不適切な存在であるかのような錯覚に囚われていく。

こうして製作者側は少女像の《記号化》に成功し、一定の力を宿すことに成功した。

 

 

表現の不自由と感受的自由

 あいちトリエンナーレ19に展示された少女像は、像そのものを単独の作品として展示することで、問題の核心である《像そのものに別の要素が関連付けられている現実》を解体し、観客が少女像に対して持つイメージの《脱記号化》を促しつつ《像そのものが持っている表現力、また記号化された少女像が背負っていたものとの差異》について再考する機会を提示し、人々の《感受的自由》を取り戻す事に成功したという意味で非常に意義のある企画だった。

これはあいトリ19のテーマである《表現の自由・不自由》へと視点を移した場合も同様で、少女像(作品)そのものに特段の不適切性は見受けられない《=表現の自由にまつわる議論を必要とする要素は存在しない》にも拘らず、市中での設置方法に対するネガティブなイメージが国内で広く記号化・共有されている事で、さも少女像自体が《表現の自由の枠に収まらない度を超えた存在》であるかのように捉われる現象との著しい差異について問題提起した好企画だったと総括できるだろう。

人々は、少女像という《巨大な空洞》に何を詰め込んでいたのだろうか。

脱記号化を果たした《とある10代女子の像》はバス停に、飲食店の行列に、面接や病院の待合に、プールの監視台に、美容室の椅子に、卒業式の体育館に、世界中のあらゆる場所で、人々とともに、平和的に共存する事ができるだろう。

そして、すべての重荷から解放されたその《少女》の姿をみたとき、ひとは何を想うのだろうか。*1

 

 

2020.05.01 追記・推敲

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*1:実際には脱記号化が社会的な共有事項にならなければ難しい問題なので、脱記号化を大前提に更なるメッセージ性を込めた「少女像〜開放への旅〜」的な市中埋没写真集でも出せば良いんじゃないかと思います。あ、これは©いのだんご案件ですよ。